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幸せな偽の花嫁。
幸せな偽の花嫁。
Author: 空野瑠理子

1話-1 偽の花嫁。

last update Last Updated: 2025-09-25 19:28:06

* * *

(どうして、こんなことになってしまったの……?)

シルヴィアは、ほんの少し前まで、民家の小さな庭を箒で掃いていただけだった。

それなのに、人さらいに遭い、こうして煌びやかな宮殿に隣接する邸宅の豪華絢爛な応接間で跪く羽目になったのだ。

目の前の椅子に座るのは、リンテアル皇国の皇太子、ハドリー・リンテアルその人だった。

いつ刃を向けられてもおかしくはない。

シルヴィアは、姿勢を正して彼を見据える。

彼は冷ややかな視線をこちらに向けながらも、その瞳の奥にはかすかな興味の光が揺らめく。

「どうか、このシルヴィア・ロレンスを貴方様の花嫁としておそばに置いてくださいませ」

シルヴィアは絨毯に額を擦りつけるように深く頭を下げ、声を震わせながら必死に懇願した。

生き延びるために、彼の偽の花嫁となるために────。

* * *

「この汚らしいピンク髪が!」

継母の鋭い怒鳴り声とともに、手作りの熱いスープが頭上からシルヴィアの髪に降りかかった。

暖かな春の日が窓から差し込み、明るくあたたかいはずなのに──朝の食卓の片隅で彼女だけが、底なしのならくへ突き落とされたようだった。

スープはピンク色の髪を伝って滴り落ち、びしょ濡れになった長い髪が頬に張り付き、シルヴィアは跪いたまま唇を噛んで涙を堪えた。

シルヴィアは庶民のロレンス家に生まれ、今年で18歳となる。

10年前、母ルーシャが病で亡くなり、父ラファルが再婚した。

けれど、継母ブライアとその娘リリアが家に入ったことで生活は一変。

リリアは2つ年下で華やかな金色の長い髪と美貌、そして病や怪我を癒す聖姫の力を持ち、皇国からの援助金によって、家は裕福になった。

だが、その富と自由、家族からの愛はリリアにのみ注がれ、シルヴィアは「無能」と蔑まれ、家事全般やパン作り、そして薬作りを押し付けられ、牢のような部屋で虐げられた。

それでも民が救われているならと、シルヴィアは耐え続けるしかなかった。

「……申し訳ございません」

召使いのごとく深々と頭を下げ、震える声でそう謝るが、その小さな声は食器のぶつかる音にかき消されてしまう。

継母ブライアはナプキンを乱暴に卓上へ叩きつけ、見下ろす視線に冷たい笑みを浮かべた。

「こんな熱いスープ、飲めると思って!? もしリリアの口を火傷させたらどうするつもり? あんたは本当に、何ひとつまともに出来ないんだから!」

継母の隣に座る継妹が、にこやかに微笑む。

「お姉さまったら、未だにスープひとつまともに作れないだなんて。わたしじゃなくてよかったわ。恥ずかしくて、とても人前に出られないでしょうね」

「本当よ」

継母に睨まれる。

「聖姫(せいひめ)のリリアとは大違いだわ。リリアは美しくて引く手数多だというのにねえ」

「リリアこそがこの家の誇り。あんたなんて──スープすらまともに作れない、ただの足手まとい。これだからお前は行き遅れるのよ!」

シルヴィアは視線を落とし、指先がカーペットの上で小さく震えた。

そして意を決して、主座で朝食を取る男性──自分の父へ目線を向けると、ふと目が合う。

だが、父にすぐさま目を逸らされ、彼女を視界から追い出すかのように沈黙した。

胸がぎゅっと締め付けられる。その痛みは、頭から浴びせられたスープよりも鋭かった。

「お前、色眼を使ってるんじゃないわよ! 食事の邪魔よ。さっさと下がりなさい!」

「かしこまりました。失礼致します」

シルヴィアは深々と頭を下げ、震える足で立ち上がり、濡れた髪を垂らしたまま、音もなく居間を去っていく。

背後から聞こえるのは、継母の罵声と、リリアの嘲笑。矢のように突き刺さり、彼女の背中を容赦なく貫いた。

* * *

その後、シルヴィアは庭の近くにある井戸水で髪を洗って冷やしていると、庭の外から通りすがりの民の囁き声が聞こえてくる。

「リリア様はまるで聖姫そのものだ」

「パンを施す時、金色の髪が神聖な光を放っていたんだってさ」

シルヴィアはうつむき、まだ滴る髪を黙々と拭った。

彼女は知っている。半年前から世間で語られる「聖姫の善行」の多くは、リリアの手柄ではないことを。

薬は病や怪我を癒し、奇跡と称されるものの、

民のため、深夜に何度も近くの森で摘んだ薬草を煎じ、薬を調合したのは自分。

凍傷にかじかむ手でパンを焼き続けたのも自分。

だが、民たちが目にするのは「金髪の聖姫」。

彼らが口にするのは「リリア様の恵み! 神様!」という感謝と歓声だけ。

本当の施し手など、誰も知らない。炉の火に咳込み、薄暗い隅でひとり生地をこねていた娘の存在を。

外では継母とリリアが微笑み、民の崇拝を一身に受けていた。

シルヴィアは影のように壁際に縮こまり、誰の目にも映らなかった。

* * *

夕暮れ、シルヴィアは自分の部屋へと戻る。

狭く、暗く、小さな窓のみの、牢屋のように寒々しい湿った部屋。角には唯一の慰めの薄い毛布、机には固くなった、残り物のパン。

彼女はそっと腰を下ろし、薬草を摘む編み籠の隙間から古びた髪飾りを取り出す。

母の唯一の形見。美しい花の模様が描かれた髪飾り。

(大丈夫、お母さまのこの形見が、お守りがあるから)

シルヴィアは、ぎゅっと胸に抱きしめ、静かに目を閉じる。

──お母さま。どうか天から見守っているなら、わたしにほんの少しの勇気をください。

頬を伝う涙。けれど次に目を開けた時には、もうそれを拭い去っていた。

どんなに惨めでも、継母の前で弱みを見せるわけにはいかない。

例え、卑しい「身代わり」だとしても。誰にも気づかれなくとも──生き抜いてみせる。

* * *

その夜。村はずれの酒場から、騒がしい声が風に乗って流れてくる。

「厄災の刻が近い」

「十年ごとに魔形が国境の裂け目から溢れ出すんだ」

「今回は、ハドリー皇太子自ら聖姫の花嫁を選ぶそうだ。聖なる力で国を護るためにな……」

断片的な会話が窓の隙間から忍び込む。

薄い毛布に身を丸めながら耳を澄ますシルヴィアの胸がかすかに震えた。

──この世界では、聖姫の力が神聖かつ特別なものとされ、清めの力を持つ者たちが存在する。

リンテアル皇国は、そんな世界に息づく国であり、10年に一度訪れる「厄災」の時期、国境に開く魔形(まぎょう)の国とのゲートから現れる魔形は皇国を滅ぼすほどの脅威となる、らしい。

聖姫の花嫁。皇太子。皇国を護る存在──。

視線を落とせば、乱れたピンクの髪が蝋燭の火に照らされ、くすんで見える。

母の髪飾りを握りしめ、苦笑する。

──そんなもの、わたしには関係のない話。

けれど、誰ひとり知らなかった。

この忌み嫌われた淡いピンクこそが、やがて「金髪の聖姫」と誤解され、皇宮と皇太子の運命を揺さぶる始まりになることを──。

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